「ながさき平和の日(長崎原爆忌)」はどんな日?
✅ 1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下されたことを記念する日。
✅ 1995年に長崎市が「ながさき平和の日」を制定、平和の重要性を訴える。
✅ 長崎市民と平和活動団体、長崎市長が式典に関与し平和を祈念している。
ながさき平和の日(長崎原爆忌):平和を願い、未来を築く日
8月9日は「ながさき平和の日」、または「長崎原爆忌」として広く知られています。
この日、1945年8月9日に長崎市に原子爆弾が投下され、無数の命が失われました。
広島に続き、第二次世界大戦の終結を迎えるために行われたこの衝撃的な出来事は、世界の歴史を変える転機となり、今日でも私たちに強く訴えかけています。
原爆が投下されたのは、1945年8月9日の午前11時2分。
アメリカ軍のB29爆撃機「ボックス・カー」が「ファットマン」と呼ばれる原子爆弾を長崎市に投下しました。
爆弾は市内500メートル上空で炸裂し、長崎の街は一瞬にして崩れ去り、多くの命が奪われました。
あの日、長崎市に住んでいた24万人の市民のうち、約7万4千人が命を落とし、その後も放射線による影響で多くの命が失われたのです。
長崎の街は、瞬く間に炎に包まれました。熱風がすべてを焼き尽くし、建物はわずかに残ったもののほとんどが全焼、もしくは半壊しました。
人々は一度に多くの家族や友人を失い、街のあらゆるところに悲しみが広がりました。
今も長崎の街には、被爆者の遺族やその後に生まれた世代が、家族や大切な人々を失った痛みを抱えています。
8月9日の意味とその背景
長崎の原爆投下から50年後の1995年、長崎市はこの日を「ながさき平和の日」として公式に定めました。
それ以前は、ただ「長崎原爆の日」と呼ばれ、単に記念日として認識されていましたが、平和の重要性を深く感じさせる意味を込めて、「平和の日」という名称に改められたのです。
この日を迎えるたびに、長崎の人々は亡くなったすべての命に思いを馳せ、平和の大切さを再認識します。
毎年、8月9日には「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が長崎市の平和公園で開催されます。
この式典では、午前11時2分に長崎の鐘やサイレンが鳴り響き、1分間の黙祷が捧げられます。
黙祷の瞬間、広がる静けさの中で多くの参加者がその思いを胸に、原爆で命を落とした人々への哀悼の意を示すとともに、未来への平和の誓いを新たにします。
式典の中で最も感動的な瞬間の一つは、長崎市長による平和宣言です。
この宣言では、核兵器の廃絶と平和の実現に向けた強い決意が込められ、参加者はその言葉に耳を傾けながら、世界平和の実現を願います。
ここには、戦争の悲惨さを知り尽くし、二度と同じ悲劇が繰り返されないようにという強い願いが込められています。
平和公園と平和祈念像
長崎市内の平和公園には、核兵器の恐ろしさを後世に伝え、平和の重要性を訴えるために多くのモニュメントがあります。
中でも象徴的な存在は、平和祈念像です。この像は、1955年に完成し、長崎の平和を象徴する重要なモニュメントとなっています。
平和祈念像は、彫刻家・北村西望によって制作され、高さは9.7メートル、台座を含めるとその高さは約13.6メートルにも及びます。
その巨大な姿は、見る人々に圧倒的な存在感を与え、戦争の痛みを訴えかけます。像は、両手を広げ、未来に向かって平和の祈りを捧げるように立っています。
その目は、まっすぐに未来を見つめ、どんな困難な状況にも屈しない力強さを感じさせます。
この像のモデルとなったのは、吉田廣一という人物で、彼は柔道やレスリングの指導者としても知られ、陸軍大尉として従軍経験を持つ人物でした。
その強い意志と「先頭」を意味する愛称「せんとうはん」からも、平和への強い願いが込められていることがわかります。
終わりに
8月9日という日は、ただの記念日ではありません。それは、過去の悲劇を忘れず、未来に向けて平和を築くための重要な一日です。
長崎の人々は、この日を迎えるたびに、原爆の犠牲者への哀悼の意を表し、平和の実現を願っています。
その思いは、平和公園や平和祈念像に込められたメッセージとして、今も多くの人々に伝えられています。
長崎の平和祈念像を前に立つと、その背後に広がる平和公園が一層美しく感じられます。
そこには、未来を信じて平和を願う人々の姿があり、毎年8月9日にはその願いが世界中に響き渡ります。
私たち一人ひとりが、この平和の願いを胸に、日々を生きることが、未来への最大のメッセージとなることでしょう。
平和は、ただの理想ではなく、私たちが一歩一歩作り上げるべき現実です。
そして、長崎のこの日が示しているように、どんな小さな行動でも、未来を変える力を持っています。
今、ここで一緒に、平和を考え、祈り、そして行動を起こしましょう。
