真白き富士の嶺の日(1月23日)はどんな日?
✅ 1910年の逗子開成中学生徒12人の七里ヶ浜遭難事件を忘れない追悼の日。
✅ エピソードを基に作られた歌曲「真白き富士の嶺」が広く歌われた日。
✅ 三角錫子、逗子開成中学、生存者支援・地域社会が深く関わる。
1月23日という日は、ただの冬の1日ではありません。
これは今から百年以上前の1910年(明治43年)に、神奈川県逗子の中学生たちがボート遭難し、12名全員が命を失った心に深く刻まれる出来事をきっかけに、今日では「真白き富士の嶺の日」として語り継がれている日です。
この悲劇は当時の新聞で大きく報じられ、全国の人々に衝撃を与えました。悲しみの中から生まれた歌「真白き富士の嶺」は時代を越えて広く歌われ、また同タイトルの映画も制作されるなど、文化としても深い影響を残しました。
この日は単なる歴史のひと幕ではなく、「記憶し、語り継ぐ」ための大切な日なのです。
真白き富士の嶺の日の由来~悲劇が刻んだ記憶
1910年(明治43年)1月23日、神奈川県逗子町(現在の逗子市)にある逗子開成中学の生徒12人が、冬の海に出航しました。
その日は低気圧の影響で海が荒れており、七里ヶ浜に差し掛かったところで波にのまれ遭難します。12人全員が帰らぬ人となるという未曾有の惨事となりました。
この事故は当時の新聞で大きく取り上げられ、社会的にも注目を集めました。なぜなら、まだ海の安全対策が十分でない時代であり、地域の人々にとっても痛ましい出来事だったからです。
この悲報を受け、鎌倉女学校(現在の鎌倉女学院)の教諭である 三角錫子(みすみ・すずこ) が追悼の意を込めて詩を作り、それに曲が付けられました。
歌われ始めた当初の歌名は「七里ヶ浜の哀歌」。
しかし歌い出しの 「真白き富士の嶺」 というフレーズが人々の心に残り、この言葉がそのまま歌の通称となり、さらに記念日の名前にもなったのです。
「真白き富士の嶺」に込められた豆知識
この歌「真白き富士の嶺」は、ただの追悼歌ではありません。
歌詞には冬の遠景にそびえる富士山が描かれ、失われた若い命への祈りと、残された人々の深い哀悼が込められています。その情景はまるで、真っ白に雪をまとった富士の嶺が、遠く静かに見守るようでもありました。
この歌は瞬く間に全国に広がり、多くの人々に歌われました。当時、日本の家庭や学校で歌われる歌は限られていましたが、この歌は心に深く残るメロディと歌詞として長く愛唱されました。
また、1935年(昭和10年)にはこの出来事を映画化した作品『真白き富士の根』が公開。
さらに1954年(昭和29年)にも同題材の映画『真白き富士の嶺』が制作されており、物語は映像として当時の世代に大きな感動を与えました。この映画化により、出来事や歌の意味がより広く伝わっていったのです。
真白き富士の嶺の日と関わりの深い人物・団体
まず最も深く関わるのは 三角錫子(みすみ・すずこ) です。
鎌倉女学校の教諭として生徒たちを教えていた彼女は、遭難の悲報を受けて歌詞をつくり、この曲が後の映画化にも繋がりました。
次に、事故の中心となったのは 逗子開成中学の生徒たちと学校関係者 です。
12人の若い命の喪失は地域社会を震撼させ、地元の教育機関としても深い悲しみと反省を残しました。
また、この歌や映画を受けて発表を支えた 地域社会と文化人たち も忘れてはなりません。
人々が寄せた追悼の想いは、やがて文化として大きく育ち、今日に至るまで歌い継がれています。
真白き富士の嶺の日に関するよくある質問
Q1:なぜ1月23日が記念日になったの?
A:1910年1月23日が、逗子開成中学の生徒12名が遭難した日であり、その悲劇を忘れないため、この日が「真白き富士の嶺の日」として語り継がれているからです。
Q2:「真白き富士の嶺」という歌は誰が作ったの?
A:「真白き富士の嶺」の歌詞は三角錫子が詩を書き、曲が付けられたもので、追悼の想いを込めた歌として広まりました。
Q3:映画はいつ公開されたの?
A:1935年に『真白き富士の根』、1954年に『真白き富士の嶺』として2作品が制作され、当時の人々に深い感動を与えました。
真白き富士の嶺の日に見る「追悼の心」
真白き富士の嶺の日は、単に歴史を振り返る日ではなく、「失われた命を思い、次の世代へ語り継ぐ」 という大切な想いを持つ日です。
この記念日を知ることで、過去の出来事がその後どのように文化や歌になり、私たちの心に残っているかを感じられます。

