2025年6月26日発売の「週刊新潮」が報じた、歌舞伎俳優・中村児太郎による凄惨なDV被害。
これは、ひとりの被害女性の声なき叫びを表に出したという意味で、重要な報道です。
ですがそれ以上に、今回の事件は「歌舞伎界という閉ざされた世界に、なぜこれほどの暴力が隠されていたのか?」という根本的な疑問を私たちに突きつけています。
馬乗りで顔面を殴打──“サラブレッド”の仮面の下
2021年、歌舞伎俳優・中村児太郎(当時28歳)は、一般女性・梢さん(仮名)と極秘に結婚しました。
しかしその結婚生活は、「舞台のような華やかさ」とは正反対。
結婚からわずか数カ月、タクシー車内での口論をきっかけに暴行が始まり、帰宅後には、
「馬乗りになって顔を殴る」
という暴力がエスカレート。
殴られ続けた顔はみるみる腫れ上がり、出血は止まらず、梢さんは「このまま死ぬのではないか」と恐怖に震えたといいます。
「お前は黙っていればいいんだよ」──沈黙を強いた“第二の暴力”
暴力の直後、児太郎氏はこう言い放ったといいます。
「お前は黙っていればいいんだよ」
これは、物理的な暴力だけでなく、「声を奪う暴力」でもありました。
さらに驚くべきは、この事件の“後始末”。
児太郎氏とその父・中村福助氏は土下座して謝罪し、再発時には慰謝料1000万円を支払うという誓約書を交わしました。
ですが、暴力はその後も続きました。
被害者はなぜ声をあげられなかったのか?
報道によれば、梢さんは精神的に追い詰められ、「適応障害」と診断され、心療内科に通院していたそうです。
なぜ、ここまでの事件が数年間も明るみに出なかったのでしょうか?
答えは、歌舞伎界の“家制度”と“沈黙の文化”にあります。
歌舞伎界に存在する「見なかったことにする」構造
中村児太郎さんは、由緒ある「成駒屋」の家系に生まれたサラブレッド。
彼の祖父は人間国宝・七代目中村芝翫、父は九代目中村福助。
つまり彼の行動ひとつが、成駒屋全体の評判、さらには歌舞伎界の信頼に直結するのです。
このため、「不祥事=家の恥」であり、外部には出さず、家の中で“片付ける”のが慣習。
それが、「誓約書で解決」「救急車も呼ばせない」「結婚も公表しない」という一連の“隠蔽工作”へとつながったのです。
「伝統」という言葉に封じられた声
歌舞伎界では、名跡(家名)を継ぐことが絶対的価値とされます。
名誉、家の格式、舞台上のポジション。
それらはすべて“血統”と“継承”によって守られるべきと考えられてきました。
ですが、今回のように、「家名の保護」が「被害者の沈黙」を強いるのであれば、それは“伝統の暴力化”と呼ぶべきです。
なぜ報道されなかったのか?メディア統制と情報遮断の実態
2021年に事件が起きたにもかかわらず、報道されたのは2025年。
しかも、「週刊新潮」という一部週刊誌が証言・証拠をもとにスクープしたからです。
児太郎氏は週刊新潮の取材に「結婚してないですよ?」と答えました。
この時点で、結婚を否定し、暴力を最小限に語ろうとした意図は明白です。
歌舞伎界では、芸能事務所ではなく“一門”が情報コントロールを行うという独自の構造があり、メディア対応も非常に限定的。
問題が起きたら、「沈黙する」「謝罪して終わらせる」「家で処理する」。
そうした文化が、今回のDV被害を“無かったこと”にしようとしたのです。
過去にもあった「見えない暴力」──類似の事例は?
歌舞伎界のスキャンダルとしては、2010年の市川海老蔵さんの“泥酔事件”が記憶に新しいかもしれません。
ただ、あの件が報道されたのは「公共の場」で「警察沙汰」だったから。
舞台裏で起きた“私的トラブル”が、公に報じられた例は極めて少ないのです。
むしろ、多くのトラブルは「なかったこと」として葬られてきた可能性すらある。
今、必要なのは「歌舞伎界の文化改革」
被害者の声を封じる文化は、もはや時代錯誤です。
私たちが大切にすべき“伝統”とは、誰かを黙らせるものではなく、すべての人が尊厳を持って生きられる文化であるべきです。
■ 改革の具体策
- 第三者によるコンプライアンス窓口の設置
- 被害者保護のガイドライン整備
- 名跡制度の透明性向上
- 報道対応の明文化
これらの仕組みを通じて、「伝統と人権の両立」は実現可能です。
伝統の名の下で、誰かが泣いていないか?
あなたはどう思いますか?
「伝統を守るために、誰かが犠牲になる」
「芸を守るために、暴力に目をつぶる」
それは本当に“美しい文化”なのでしょうか?
守るべきは“家”ではなく、“人”です。
そして、守るべき“芸”は、人の痛みに寄り添えるものでなければならないはずです。
おわりに──私たちが声をあげる時
中村児太郎さんのDV事件は、単なるスキャンダルではありません。
これは「歌舞伎界の構造」と「日本の伝統文化」が持つ、もうひとつの課題を浮き彫りにしました。
私たちひとりひとりが、この記事を読んで思うはずです。
「黙っていれば、何も変わらない」
梢さんが勇気を出して証言したように、誰かが声をあげなければ、沈黙の中でまた同じことが繰り返されるでしょう。
伝統とは、変わらぬものではなく、「時代と共に進化すべきもの」なのです。